夏の亡霊

 

長らく空き家だったお隣に、住人が越してきた。
性別男性。氏名不明。国籍不明。声・一人称・趣味・年齢・家族構成・恋人の有無・その他一切すべて不明。
褐色の肌に白い髪という異国を想起するに十分な風貌を備えたその人は、大家族で住んだとしても到底部屋を埋め尽くせない広い広い屋敷にやってきて、以来たったひとりで住んでいる。はじまりのその日からもうかれこれ半年ほどになる。
最初は一足先に到着した一家の代表とも思ったが、その荘厳な和造りの門に彼が初めて足を踏み入れて以降、いまだ彼の顔しかわたしは知らない。
我が家の二階にあたるわたしの部屋の窓からは、謎男性の住む広大な屋敷が見下ろせる。いかにも「日本家屋」という趣きの鉛色の瓦屋根に漆喰の壁に包まれたその家は、いつだってひっそりと活気がなく、──現に無人ではあったのだが──いかに猛威を振るう真夏の日差しの下でも別世界のように涼しげに見えたものだ。
買い手がつかないだけなのか、それとも所有者が管理を放棄したのか。もう何年と人を招き入れることなく、永遠にも思える永い時間孤独に耐えたその家に突如出入りするようになった男性と、その彼が顔に似合うんだか似合わないんだかわからない両手に買い物袋を下げ敷地を出入りする光景は、ふとした隙に目につき、既にわたしの生活の一部、自室からの定番の風景となりつつあった。

初夏のことである。
お隣のお兄さんが縁側付近に設置された給水管から青いホースを引きひき、庭に植わっていたひまわりに水をやっていた。
部活帰り、コンビニで買ったアイスクリームを惜しげも無く舐め溶かしていたところ、ばったり会ったのだ。
かの敷地を囲む蒼白の壁は三方のみで、残り南側の一角だけはフェンスを敷設しただけの道路に面した開けた視界になっている。生まれてこの方この土地に住み続けているわたしがその事実を知らないはずがないのだが、どうしてこのタイミングでこの雄々しい男性が花に水をやるなどと予期できよう。これも全ては、花を愛でるだけのハートウォームさが外見に現れ出ていないお兄さんが悪かった。それも対象は元気ハツラツイメージゴリ押しひまわりだし。

「こんにちは!」

人間、過度に恥ずかしいおもいをすると、無駄に張り切ってしまうものなのか。溶けたアイスでベタベタになったわたしの口をついて出てきたものは、音量の調整が利かない壊れたラジオのように素っ頓狂で、どこか場違いなめちゃくちゃな挨拶だった。張り上げた声は快活そのもの。真夏の蒼天をどこまでも貫き、遥か宇宙圏にまで到達した。甲子園球児かよとわたしはわたしを問い質したい。

「こんにちは!」

今しがたわたしを問い質したばかりなのだが、褐色お兄さんからなんのレスポンスもいただけなかったので、もう一度、いった。大事なことは幾度となく復唱せねばなるまい。たとえそれが挨拶だったとしても、円滑なご近所付き合いのため、けしておろそかにしてはいけない重要事項だ。
サイダー味のアイスを舐めるのを一旦やめ、大きく息を吸い込んだ後、背筋を伸ばして彼を見る。暑いためか色素の抜けた短髪はいつもの様相と違い、やんわりと肌に落ちていた。前髪の下に据えられた無機質な灰色の瞳に映ったわたしがどれほど滑稽だったかはわからないが。慌てて下ろした視線の先、ぴったりと上体を取り囲み屈強な造形を布越しに伝えてくる黒地のTシャツから覗く腕がたいそう逞しかったので、なんか目の前の視界がぐるぐるした。

「君は…隣の家の者だな。よく知っているよ。深夜遅くまで明かりが点いているのを見かけるからな。夜更かしに三文たりといいことなどない。早めの就寝を心がけてはどうだ?子供と言えど君も一人の女性だろう」

「ならば、尚更だ」と。言葉を切ったその目は告げている。
威力を保ったままにホースから噴き出す水流。その源流から外れた水しぶきの一粒一粒が、破壊的な攻撃力でもって視界を焼く。チカチカキラキラ。さんさんと降り注ぐ光を集めた渾身作は矢じりのように瞳を突き刺す。それ以上目を開けていたらどうにかなってしまうと判じ、わたしは咄嗟に後ずさる。

通学路として利用している歩道に整列した植木。その根っこの辺りには光と闇の明確な境界線があった。木々の落とした影の中ならば、僅かながらも闇の恩恵を受けることができる。助力を得たわたしが再び顔を上げ、改めて光の者──すなわちお兄さんを見遣ると、そこには熱気を知覚しているのかすら疑わしい起伏のない平坦な色の瞳があった。
その眼の先にいるのがこのわたしだと思うと、余計にぐらぐらした。

「ここでお一人で住んでいるんですか?こんな広い家に住めるなんてお金持ちですね」
「君はひまわりの花言葉を知っているか?」

いいながらお兄さんが左手に握っていたホースを見放すかのように無造作に足元に落とすと、途端ひとつの生命が誕生した。そこにいるのは蛇だった。底なし沼に巣食う主。うねくり、見境いなく地上を這いずりまわり、そこかしこを黒く濡らしていく。乾いた地面を侵食する不可抗力は、まるでオセロだ。
暴れる蛇をよそに、彼は空いた方の手で何十ものひまわりの群集を指先であしらい掻き分けていく。金色をした花の洪水。立ち上る生気はこちらを圧倒するほど力強いのに、白々しいほど満開に咲き誇る花達はいっそ造花のようですらあった。焼けた素肌は夏にこそ相応しかったが、不思議とその顔にひまわりの花は似合わない。

「知っていますよ。こう見えて女子ですからね。ひまわりは「いつわりの富」。ははあ、つまり、お金持ちではないと言いたいのですね」

その瞬間までわたしは、その人をあまり感情を発露させない無愛想な類の人間なのだろうと誤解していた。何しろ笑ったところを見たことがない。笑うもなにも、広々とした敷地に暮らすただ一人。一体何に笑いかけろという話なのだが。
窓から見下ろすだけでしかない間柄。いつしか根付いたそんな印象は、唇を歪め笑うその人の面持ちに瞬時に上書きされ、遠く彼方に追いやられ、かつて抱いていた幻想は途方もなく思い出せなくなっていた。

「そうなのか?いや、私は花言葉など知らんよ」

ただ聞いただけだ、と。
だとすれば何のために?
笑いを噛み殺すようにして声を漏らすお兄さんに嫌悪して、それ以上問いかけるのをやめた。わたしは視界を正常に戻す。彼から顔を背け、セミがわめく街路樹の歩道で視界を覆う。
子供相手に意地の悪い謎かけをする大人に少し呆れたのかもしれない。現に幻滅だってしている。
じりじりと胸を焦がすひりつきは、アスファルトから立ち上る熱気によるものだろうか?であれば早急に冷やさなければならない。しこたまアイスをかき込んで冷却しなければ、この体は直使い物にならなくなる。
いつもの帰り道。学校から自宅までは、どう創意工夫を凝らしても迷いようのない一本道だ。見慣れた風景に呆れる毎日。海魔も魔法使いも英雄も、わたしの前には現れない。このまま平穏な毎日を何万回と繰り返し、わたしは生涯を終えることだろう。危険を避けて安全な道を選んでいけば、平穏に安らかにわたしは天国に行けるのだ。だというのに、わたしはわたしを裏切った。

「何が面白いんですか?」

既に店を出て数分経っている。炎天下の灼熱をもってすれば、ちっぽけな氷の塊を液体と化するには十分すぎる時間だ。ほぼ水となり先ほどからわたしの右手を濡らし続けているそれを、皮肉っぽく笑うお兄さんの顔ど真ん中めがけて投げつけた。

「子供だからって舐めるなこのやろう!アイスでも舐めてろ!貴方なんて、嫌いです!」

やってしまった。甲子園球児ではないわたしには、背負うべき誇りも守るべき仲間もなく、正にそれが敗因だった。
怒りのまま投球した溶解アイスクリームは見事お兄さんにストライク。彼の顔と服を懸命に濡らし、一瞬、その端正な顔立ちが強張る。こんな強そうな人に喧嘩を売ってしまっては、生きては帰れないだろう。わたし享年17歳。死に瀕した今、ひとつでも聞き遂げられる願いがあるならば、YUKIちゃんの「夏のヒーロー」をお葬式で流してほしい。

「ク、クク、ハハハハ!訂正しよう。先ほど君を女性と言った気がするが、そんなことがあってたまるか。これほど粗暴な女性はおるまい。私の目算が誤っていたようだ。いや、まったくどう侘びたらいいかわからん。すまなかったな、少年」
「な!?スカート!スカート履いてますから!」

しかもツインテールだし。いちごの匂いのするフレグランスつけてるし。毎晩トリートメントケア欠かさないし。iPhoneケースかわいいし。少女像を体現したわたしに少年などと言われる要素は一片たりとないはずなのだが!
統計上、怒るはずのお兄さんは憤慨するわたしを見てことさら苦しそうに笑い、濡れた顔など意に介さず、慣れた手つきで大輪のひまわりを一本折る。それからこちらに差し出した。彼の母国では、死の宣告を意味する行為がそれなのだろうか。

「スカートならば男だって履くだろう。物的証拠にはならんぞ」
「そ、それはそうですけど…じゃあどうやって証明すればいいんですか…?あっスク水スク水ですね!いま持ってるスク水を着用すればいいのですね!こう見えてなんとわたし水泳部なんです!TVアニメに影響されて最近入部したばかりなんですけど、あ、知ってるかな?京アニさん制作のFree!っていうアニメでわたしは凛ちゃんていう男の子が」
「ほう。好きなのか?」

見上げた長身は目を細め、唇を歪め笑っている。やはりこちらを馬鹿にしているように思えるのだが。

「…べつに、好きではないかな」

不思議と嫌悪感は薄れてしまった。頭がぼんやりとして、正常な思考が働かない。これもぜんぶぜんぶなつのせいだ。

「花など食えんし、腹も膨れはせんが、これをやろう。少女から楽しみを奪ってしまったからには、手ぶらで帰すわけにもいくまい。何しろ私が代わりに食べてしまったからな。それに君にこそこの花は相応しい」

そう言ってフェンスに身を寄せると、乗り出すようにして腕を差し出し、ひまわりの筒状花をこちらに向けてくる。何をしてくれようとしているのか理解するのにかなりの時間を要し、その間にも絶え間なく蝉の声は響き渡る。

スク水見せてないのに女と認めてくれるんですか?」
「君のようにかわいい男子がいれば大問題だろうな」

数々の皮肉も、不遜な態度も、手軽な社交辞令も、わたしの手には余りすぎる。あと100本くらい手がほしい。猫の手でもいい。呼吸なんてもうとっくにロクにできておらず、胸が苦しい、顔が熱い。体の機能はひとつずつ確実に死滅していき、上がり過ぎた体温を放っておけば死ぬのは歴然だ。早くここから逃げなければ確実に殺される。

「行きます!」
「ほう、もう行ってしまうのか。それは実に名残惜しい。本題はここからだったのだが」
「こう見えてわたし多忙を極めますので!それではよい夏を!」

ほとんど顔も見ずに早口で言い切ると、奪うように彼の手からひまわりを受け取り体を反転させ、華麗に戦線離脱する。と、ふと。去り際さっきの言葉が気になった。

「わたしに相応しいと言いましたね。ひまわりの花言葉、本当にひとつも知らないんですか?」

一瞬の間の後、「さあな」とかぶりを振ってその人は、「また来いマスター」なんて意味のわからないことを口にした。

首元を吹き抜ける風は生ぬるく、始まったばかりの今年の夏はこれからいよいよ勢力を増すだろう。その間、幾度となく通るこの道。その時はコンビニでアイスクリームを買うのを忘れずに。


別に溶けたアイスの代償として、ひまわりの花がほしいわけではない。