教会の地下室には悪魔が眠っている。

 

教会の地下室には悪魔が眠っている。
そんな噂が街を彷徨うようになったのは、いつの頃からか。
地獄へと通じている地下室から夜な夜な聞こえる呻き声。
奏者のいないパイプオルガンはリズミカルに不協和音を奏で、庭園に咲く鮮やかな薔薇は人の肉から養分を吸い上げる。
学校の階段の教会版とでも言えばいいのだろうか。どこの街のどこにでもある、実に馬鹿らしく微笑ましい与太話。それらのトリを務めるのが、「美しい少女の首元に牙を突き立て、骨と皮になるまで生き血を啜り上げる赤い眼をした悪魔」だった。

この冬木にある唯一の教会は古い住宅街を行ったその先、この街を一望できる小高い丘に建っている。賑わう新都から離れた立地と、無宗教であるために、いまだわたしは教会に未踏だ。
教会がどんな場所なのか興味はあった。静謐で穏やかで、美しい心を持ったものだけが神の謁見を許される神聖な空間。自堕落で向上心がなく、ただ悪いことができないから善人であるだけのわたしが訪れていい場所ではない。 はずだった。

「なんで教会の人間が寿司の出前を取るのよ」

教会といえば西洋──洋風食じゃないか?寿司なんて和風なもの食べる?出前取るならピザでしょう。
原付きのエンジンを止めヘルメットを外すと、十分ばかり前、ポケットがないため仕方なく押し込んだメモを胸の間から取り出し、もう一度改める。
確かにそこにはこの場所までの地図と、それに貼り付けられた「冬木教会様 極上寿司一人前 ¥15,000―」という伝票があった。

「まさか日本食好きの外国人がここのファーザー?」

まったく理解しかねるが、一応は家業の遣いとして配達に来た身。客がどんなやつで、どんな理由で寿司を注文したかなど、無粋な推察は業務外だ。いくら思考を深め、いかなる名推理を繰り広げようとも、わたしの財布に一銭の報酬も振り込まれてこなければ、幼児化した体が元の成長と経年を取り戻すこともない。

丘を登り切った車道からまっすぐに伸びた白い石畳の歩道が、教会の正面玄関までを繋いでいる。俗世と教会を結ぶ唯一のライフラインのようにも感じられた。
わたしは侵入口でバイクのシートから身を降ろすと、通路の中ほどまで歩いてバイクを押していき、邪魔にならないよう隅の方に停車させた。ヘルメットに押さえつけられていた髪を無造作に手櫛で梳いた後、シート後方に積んでいた寿司の入った木桶を掴み、意を決し対象物をまっすぐ見据える。
晴天の日曜の昼下がりというのに、一切の人気がなく、教会は不気味なほど静まり返っている。帰路を思えば教会のすぐ前に駐車させたかったが、人の目がないからといって神の目が見ている場合だってあるだろう。この場所ならば。 死後、天国行きを志望するわたしは、できるだけ善良な一市民を演じる必要があった。

教会の正面壁面をざっと見回してみるに、扉の横にも窓の下にも、チャイムのようなものは見つけ出せない。よく探せばそれらしいものがあるかもしれないが、下手にうろついては不審者と疑いをかけられ、死後裁きにあうかもしれない。正面玄関と思しき重厚な扉が室内の暗闇を覗かせていたこともあり、わたしはそこから侵入し、日本食が大好物の金持ち神父の元に極上寿司を配達することにした。

「こんにちは!司寿寿司です!お届けに参りましたー!」

重々しい軋みをあげて開いた扉の先は無人の参列席。なるほど。敬虔な信者はここに座り、その前で真直な神父が教えを説くのだろう。採光窓から降り注ぐ日光は柔らかくそこかしこに丸い円を描いている。これだけ光が入る場所なのに、室温はさほど高くなく、初夏であるのに秋口のような冷ややかさに包まれていた。
返事はないが、ないからといって、そこに突っ立っているわけにもいかない。なにせ商品は生物だ。それも食事という、時に人格すら変革してしまう可能性を孕む欲求補填の至急品。悠長に「人が通りかかるのを待つ」なんてことはできない。参列席の中央通路に敷かれた赤い絨毯の上を黒いヒールで踏みしめ、とりあえず奥まで進むことにした。 奥に神父の控える個室があるのかもしれないと思ったのだが。進めど進めど人気がない。意外にも教会は奥まった作りになっていて、普段教会と聞いてイメージするステンドグラスとパイプオルガンのある礼拝堂は、その施設のほんの一部にすぎないのだと知る。
ぐねぐねと折れ曲がる長い長い通路を進むこと数分。ようやく辿り着いた終点は誰かの個室のようだった。

「どなたかいらっしゃいますかー?」

行き着いた先に待ち受けていた、装飾の類がどこにも見当たらず、「扉」としての機能を十全に、その他を一切省いた扉らしい扉を三回ノックする。返事はない。ないが、こんな奥まで来てしまった以上、多少無理を働いてでも、手早く代金と寿司を引き換えてここから撤退したかった。
なのでわたしは──神の目がいまこの一時、この一角に及ばないことを祈りつつ、その扉を開けた。

「!」

ドアノブに手をかけゆっくりと押し開く。そこには、教会の奥には────が眠っていた。

「神父…様……?」

黒い革張りのソファーの上に体を横たえる外国人。金髪でさらさらでツルツルで。白くてすべすべでキラキラで。一言でいうなら、そう、綺麗。
瞼を閉じたまま、寝息も立てず身動ぎすらしないその姿は、あまりに美しく。死んでいるのではないかと、良からぬことを過ぎらせるほどに。

「あの…?お寿司…?生きてます、よね…?」

部屋の中央に配置された足の短いテーブルの上に、ここまで運んできたお寿司を静かに置く。
配達を頼まれた時に着ていた、ノースリーブのブラックドレスにヒールという寿司屋らしからぬ出で立ちでここまで来てしまったが、目の前の人物も教会にいるにしてはなかなか奇妙な風体だ。
ファッションの講評としては、評価不能。高貴さとどこか悪趣味な毒々しさとが絶妙に混ざり合った現世風ではないお召し物は、着こなすのにそれなりのプロポーションと度胸を要しそうだが──この人だと似合ってしまっている、のかもしれない。どこかでこういう格好みたよなーとわたしは首を傾げ考え込む。

「あ、パリコレ」

そうそう!パリコレだー!日常ではとても着られそうにないけったいで豪勢な衣装。まさにあんな感じ。答えを得た充足感にひとり首肯するその刹那、

「誰だ?貴様は」

総身に悪寒が走った。それは死体が口を利いた恐怖によるものではない。その人があまりに美しく、開かれたその瞳の色がやはりこの世のものではないほどに、鮮やかだったから。
こんな生き物が地上にあって許されるというのか。こんな奇蹟みたいな造形が存在したというのか。息を止め感嘆するわたしを血色の眼は一瞥し、体を預けていたソファから上体を起こし立ち上がる。

「そのまま黙っていても命はないぞ?何用でここに参った」
「お寿司を持ってきたんです。注文された神父様は貴方ではありませんか?」
「ああ、そういえばそんなこともあったかもしれぬ。どんなモノかと思ってな。地上一の美味を謳う食物を参ずる雑種の顔は」

あまりにも退屈で見たくなったのだ。ということらしい。
…なにやら、わたしの用いる言語と軽く数百年の開きがあり、仰る言葉の意味を明確に理解できているかといえば分かりかねるが。なんとなくその言わんとするニュアンスが「失礼だなーこいつ」方面であることは感じ取れた。つまり、電話一本でほいほい動く安月給の労働者の顔を見てみたかったと?うん、感じ悪いな―。イケメンはことごとく周りに優しくされるから性格がいいとか言うけれど、何事もほどほどにということだろうか。ここまで極まった容姿であれば、地上全てを司る神にでもなった気にすらなれるのかもしれない。

傲岸な物言いに若干呆れはしたが、わたしは寿司屋、彼はお客。しかも金髪白人イケメンだ。奴隷制度の名残で別人種はすべて犬のように見える悲しき生い立ちである可能性も否めない。
それに、天上から地上を見下ろすかのようなあまりに高みからの物言いは、的外れというか、かえってこちらのプライドに抵触することもなく、火元の隅に置かれた鍋のように熱源から外れ、怒りの沸点をうまく捉えることができない。よって、まあいいかと聞き流すことにした。早く帰って撮りためたドラマ見たいし。

「それでは15,000円になります」
「我を誰だと思っている。払う金などあるはずもなかろう」

なんと?

「でもお金をもらわないとこのお寿司を渡すことはできませんし」
「我が欲しているのだぞ?なぜに喜んで差し出さん。この無礼者めが」

どっちがだよ????

理解した。
地雷だ。
神が人型の地雷を作ったとしたら、きっとこんな形だろう。
地雷としての機能を果たすために必要なものは、一息では殺してしまわない程度の弱すぎず強すぎない絶妙な出力の殺傷力。そしてその機能を発揮するための前提として、こちらの興味関心を寄せ付ける餌となる、甘い誘惑が必要だ。それは子供の好みそうなぬいぐるみだったり、はたまた端麗な容姿だったり。
甘い匂いに誘われて腕を伸ばしたが最後、一歩を踏みしめたが末期、体の一部は散り散りに吹き飛び、あとに残るのは欠損した体と猛烈な痛みというわけである。
この神作の地雷を前にどうしたものかと、瞬時に思考を巡らせる。赤い瞳はこちらを睨みつけたまま。ごくりと喉が鳴った。適当に引き上げて、教会の神父様は頭の逝かれた方でしたと、ありのままに結果報告してしまうのが一番いいだろう。

「遣いの者なので難しいことはよくわからないんです。申し訳ないですが、今回はキャンセルということで」
「なあ雑種よ。近頃このフユキの者どもがこぞって口にする風聞の類を知っているか?」
「?…教会についてなら」
「我としたことが、労に忠じる臣民への慰撫を忘れておったな。さぞ外は暑かったであろう。せっかくここまで来たのだ。体を癒やしがてら、我にその漫談を聞かせてはくれぬか。何しろ無聊しておったのだ。今はどんな小噺も一字千金になるやもしれん」

教会の地下室には悪魔が眠っている。
そんな噂が街を彷徨うようになったのは、いつの頃からか。
地獄へと通じている地下室から夜な夜な聞こえる呻き声。
奏者のいないパイプオルガンはリズミカルに不協和音を奏で、庭園に咲く鮮やかな薔薇は人の肉から養分を吸い上げる。
学校の階段の教会版とでも言えばいいのだろうか。どこの街のどこにでもある、実に馬鹿らしく微笑ましい与太話。それらのトリを務めるのが、「美しい少女の首元に牙を突き立て、骨と皮になるまで生き血を啜り上げる赤い眼をした悪魔」だった。

そこまで語り聞かせると、その人はさも痛快そうに手を叩き大笑した。

「なんだその話は!あまりに愉快ではないか!」
「いくらなんでも子供じみていますよね。本当笑っちゃう」
「いや、そうではない。なかなかいい線をいっている、と思ってな」

その言葉と共に艶光る赤い瞳。
そう、この教会を根城にする赤い眼をした悪魔は、つい先ほどからわたしの前にいたのだ。
瞬間、ぐるりと視界が反転する。腕を引かれ、座していた革張りのソファーに乱暴に背中から叩きつけられる。天然石をまるごと一枚掘削し嵌め込めた天井をわたしが仰ぐ。豪奢な金細工の照明がわたしを見下ろす。小難しい題名のハードカバーが陳列する本棚に目配せをくれる。純銀製の花瓶も、煌々と蝋燭の炎を灯す燭台も、誰も誰もわたしを助けてはくれない。

「わたし!かわいくないし!血もあんまり美味しくないと思うので!お寿司食べた方が絶対にいいです!」

うちのお寿司は美味しいです。それだけは保証できます。もし嘘だった時は、その時は、

「お代はいただきませんから!」

助けてとか優しく殺してとか、そういう次元の話ではないことは直感でわかった。わたしがなにを言おうとも、いかに乞おうとも、この人はわたしを殺してしまえるだけの力を持っている。そしてこちらの懇願を、弱者の悲鳴を、聞き入れるだけの心を持っていない。押さえつけられた腕は頑としてわたしの体を固定する。残忍に燃える緋色は悪魔と形容するにこそ相応しい。ただ、そんな状況に戦慄としながらも、恐ろしいまでに完成された人型地雷の外装に惚れ惚れとする自分がいた。呆れる。一度ここで大人しく殺された方が、来世のわたしのためになろうか。

「ハッ、何を言うかと思えば。言っておくが、誰がお前の血肉など啜るか。腹を壊しては敵わん」
「じゃあ!?」
「いや、退屈しのぎに死んでみせよ。我が関与するのはそこまでだ。その後の貴様の死体の処理など知らぬ。数日も放置しておけば、後は腐敗の蟲どもが苗床にしてくれよう」

入り口で神に祈りを捧げたことが悪かった。神の目がいまこの一時、この一角に及ばないようになんて祈ったせいでこうなった。いや、神が彼をしつらえたなら、救いを求めるべき神こそが元悪で、この世のどこにも救いなどありはしないのではないか?
絶望した!この世に神などいなかった!

殺人という行為には、到底不向きに思えるどこまでも優美な両の手が、わたしの首にかけられる。だがそこに込められた渾身は、確かにものの数秒でわたしを絶命せしめるだけの脅威だった。どうしてこの人はそんな顔をしてこんなことができるんだろう?お寿司を前にしてまず先に人を殺そうなどという、その思考も不可解だ。人間お腹が空いていては結果が振るわない。殺すにしてもまずは食事が先だろう。

視界がかすみ、意識が千切れる。辛うじて繋ぎ止めている思考も直に断線してしまうだろう。彼はさも愉しげに笑っている。とても楽しげなので、こちらまでなんだか楽しい気持ちになってくる。
こんな状況なので心残りを考える。わたしが最後に思うことはなにか。これといって思い出すべきこともなかった。強いて言えば、死後、神にあったらクレームをつけてやりたい。あなたの作った彼はとんでもない兵器であり、それが意図したことならば、最高の成果を得ていると。そしてそのせいでわたしは天寿を全うすることができなかった。 であればその名を問わなければ。
わたしは一握りの酸素を掬うよりも、それを優先した。

「名前、は…なんて、いうんです、か…?」
「何故それを聞く?聞いたところで貴様は死ぬのだぞ?」
「文句いう、から。死ん、だらぜったい、かみさまに、文句いう、それで、賠償金、代わりに、てんごくから、ころして、や、る、ぜったいに、ころす、ついでに、美少女に、生まれ、変わる、約束も、とり、つける、そうでも、しないと、わりに、あわない」

自分でもわけがわからない主張だったが、「寿司を配達にきたら殺された」なんて糞スレみたいな状況からして、既にわけがわからないのでいいのだ。
ふと、電池の切れた機械のように、全力が込められていたその指から力が抜け落ちる。その主は目を見開き、この世全ての汚物をかき集めたものでも見たような、呆気にとられた顔をした。
そして、少し、考えるような間の後。

「雑種、名はなんという?」

その人はこちらの名前を問うてきた。先に聞いたのはこっちだ。わたしの問いに先に答えてからにしてほしい。
なにより、名前を告げたら逆にこちらが呪い殺されてしまう危険もある。Facebookだって検索されかねない。ここは慎重にいかなくては。
圧迫されていた気道が開放された反動に咳き込みつつも、抗議のため迅速に呼吸を整える。数秒ぶりに取り込む酸素は、それでも体の隅々にまで実によく染みわたっていく。

「先に聞いたのはわたしなんですから、まずそちらが先です」
「フン。いいだろう。我の名前は──えい

その先は、乱暴に開け放たれた扉の音に重ねられ、わたしの耳に届くことはなかった。黒衣をまとった人物がノックもなしに入ってきたのだ。

「寿司屋よ、やけに遅いと思えばこんな所にいたか。配達ご苦労。15,000円だったな。丁度ある、受け取れ」

寿司と悪魔と神父の握る代金とを順番に見比べた後、「……まいどありー」わたしは力なく微笑んだ。


▽△▽△▽△▽

神父から受け取った代金を胸の谷間に押し込み、着衣を直すと、わたしは元来た通路を引き返す。
悪い夢を見ていたようだ。いや、事実見ていたのだ。あんなに綺麗で残忍な人間がこの世に実在していいわけがない。生まれて初めて教会を訪れたわたしへの、イエス・キリストからの洗礼というところか。なかなかに手荒い宗派だなあ。

後にした教会を一度も振り返ることなく、わたしはバイクに跨ると、差し込んだままのキーを大きく捻ってエンジンをかける。体に響く振動に、降り注ぐ夏の太陽。先ほどまで対峙していたはずの死は、今はどこにもいなかった。ここを訪れる前までのように、のうのうとわたしは生きている。
結局最後まで訊けなかったが、もしあの言葉の続きが聞けたなら、どんな名前が待っていただろう。わたしは考える。

「えい──?瑛太?」

なわけあるか。わたしは笑ってスロットルをねじり込んだ。