白昼夢は謎を喚ぶ

「先生、次の講義で使う資料をお持ちしました」

「ああ。悪かった。丁度手の空いている者が他に居なくてな。なんせ今は盆休みだ。多くの生徒は帰省しているか、そうでないものは補講を受けている。そのどちらでもない者となれば、思い当たる人物は弟子のグレイか君くらいだろう。だが、我が弟子には別の遣いを頼んでいてな。こうして補講を免れ、帰省に応じない、優秀で風変わりの君の助力を得ることとなった」

実に助かったよ。心から礼を言う。有難う。

こうして誰かに礼を告げることは、彼にとっては珍しいことであった。歴史ある魔術師の家系からすれば少しばかり許容し難い、“現代魔術”という珍妙な講義を担うのが、その彼、ロード・エルメロイⅡ世である。

彼が一定の声のトーンを保ったままにそう告げると、遣いを終えた生徒からは安堵の色が見て取れた。そして、自身に充てがわれた一室のドアから彼女を見送ると、すぐさま彼は思考を反転させる。さて、今回の案件はー。

いつものようにライネスに呼び出されたロード・エルメロイⅡ世だったが、定刻の15分前を指し示す壁時計を見遣り、その年齢に相応しくない深々とした皺を眉間に形成すると、紅茶がなみなみと注がれたティーカップに口をつけた。その途端、彼の視界がぐらりと歪む。世界が、視界が、マーブル模様の様を呈し、全身が弛緩していくのが感じ取れた。ソファーに座っているのすら困難を極める。これは…!

「誰、だ、私のお茶に、一服、盛ったのは…!!というか、気付いているぞ!お前がずっとそこにいるのは…!」

部屋の死角に潜む何者かの気配には当に気付いていた。否、何者かが誰かまで断定していた。ただ、指摘する必要がないと判断したまでのこと。

「私さ」

「なっ!なんのつもりだ、ライネス、貴様ぁ!」

「なぁに、ちょっとした悪戯心さ。難解な事件ばかりを相手にする兄上の心労を察したところ、こうするのが一番だと思ってね」

ライネスはかろやかな足取りで、一滴残らずすっかり綺麗に飲み干された元・薬物入りの紅茶の入ったティーカップを逆さまにして見せると、猫科の動物の様にすっぽりソファーに全身を預けることとなったエルメロイⅡ世の頭を持ち上げ、自らの腿の上に乗せてみせる。これからここで彼の解体ショーが執り行われてもおかしくはない。そんな威圧的な空気すら感じ取れた。実に滑らかな所作でもって無防備を極める首を撫でられたものだから、ことさら怯んでしまうのも仕方のないことだった。

「ふふん、間違っちゃいないだろう。どうだい10代の若々しい太腿は。そこらのロードらが知ったら泣いて羨ましがるに決まっているさ!」

ライネスはそう高らかに発声する。

まだ成長過程にある少女、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。エルメロイの次期当主であり、ウェイバー・ベルベットという青年に“エルメロイⅡ世”の名を与えた張本人。

いつも見下ろすのはウェイバーの方なのだが。地球が逆さまになったかの如く、今はそれが逆転している。形勢逆転とはいかないのが悲しき彼の性だった。彼はいつだって、彼女の流暢な弁に胃を痛めているのだから。

何がそれほどまでに愉快なのか、クツクツと喉を鳴らし、ウィンクまでしてみせるライネスを俯瞰するしかないときた。彼女の思惑をよそに大きなため息をつくと、エルメロイⅡ世はこの案件、どう解決したものかと思考を巡らせる。

秒毎に瞼が重くなってくる。秒速で睡魔が襲いかかる。ロードの名前を冠する彼にすら、この戦いは勝てそうにもない。

「く、そう!こん、な、はず、じゃ…!!」

ライネスが慣れた手付きで彼の頭を撫でる頃には、彼の意識は失われてしまっていた。そんな彼を見下ろし、どこか悲しげな瞳で一人ごちるライネスは、もう一客のティーカップに紅茶を注ぎ、そっと静かに口を付ける。

「本当に感謝しているんだ。兄上には」

だからこれくらいはさせてくれ。

その声は白昼夢に引き込まれた彼にはけして届かない。

束の間の休息。ここには海などありはしないし、かの王なぞ居やしないのに、寝息を立てる彼の耳朶には誰かの聴いた潮騒と、懐かしいあの背中が見えたような気がした。