ダラク

「わたし、貴方のことが大嫌い」

そう、眉根を寄せる彼女の髪を、彼女の嫌うこの俺が洗うというのはさぞかし可笑しなことだろう。

如何にも水攻めに適した防水仕様の拷問部屋(芸のない言い方をすれば浴室だが)で、バスタブに半身を浸からせ、小一時間ほど俺に背を向け続けているのは、驚くなかれ。なんと!俺のマスターだ。

俺を喚び出した彼女は喚び出したその瞬間、俺の顔を見る前から「大嫌い」と罵倒し、そっぽ向くという、なんとも手厚い歓迎で俺をもてなした。固く結ばれた唇からは、予測変換機能がイカれた電子機器のように、限られた僅かな単語のみが吐露される。俺には一応マスター向けに「アーチャー」という呼称があったが、これまでに一度たりとて彼女がその名を口にすることはなかった。「あれ」や「それ」ではなく、人物を指し示す「貴方」が俺の名前になっていることが、彼女に対して抱いた唯一の好感だったが、何の某と俺が名乗り出ていない以上、そう呼ぶ他なかったのだとも言えよう。俺には名乗るべき名も、呼ばれるべき名も持ち併せてはいないが、尤も彼女にとっても俺にとっても、俺の名前などない方がいいに違いない。名前などあれば、より存在を浮き立たせ、対象に対する憎しみが一層深まるのだから。

洗髪の工程は佳境に差し掛かっている。手に取ったシャンプーで満遍なく全体を泡立たせ、毛髪や頭皮を傷つけないよう注意を払いつつ、丁寧に洗っていく。べっとりとした質感の保湿剤を塗り込む過程で、なんとはなしに俺は口を開いてみた。

もしかすると我がマスターは会話を求めているのかもしれない。そう思い至ったからだ。投げられたボールには小さな棘が生えていたが、俺の手のひらを優しく撫でる程度である。それを彼女が受け取れる程度に軽く放ることで、“キャッチボール”の体裁を取る。

「好かれていなくて幸いだ。戦闘という地獄において、愛だの恋だのを超える自殺行為はあるまい。君が私を憎むほど、我々の勝利が近くなる」

「貴方、本当にかわいくないんだから」

「かわいいサーヴァントなどあったものか」

「図体だけじゃなく態度まで大きいのね」

「ああ。君が風船を空高く飛ばしてしまった時にこそ、晴れてこの身が活躍できるだろうが。さてそんな局面があるかどうか」

 本当に、大嫌い。

だがしかし、顔を合わせたくないからと言って、こうして無防備に背を向けるのもどうかと思うが。サーヴァント、使い魔、使役されるだけの英霊。ではあるが、マスターを殺せる程度の能力を所持し、それを試行するのはいとも容易いときている。

つまりはだ、俺のマスターの命は(どんなに俺を嫌っていようと無関係に)俺が握っている――預かっていると言っても語弊がない。

「わたし、貴方が嫌い。だって勝手に現れたと思えば勝手にいなくなっちゃうんでしょう」

こころなしかマスターの細い小さな肩が震えている。

だから真名なんて知りたくないし、心なんて開かない。使い魔としてだって名前を呼べば、愛着が湧くわ。聖杯戦争なんてなければいいのに。わたしの願望はいつだって孤独を得ないことだわ。

一回り以上小さなマスターの手のひらはいつしか彼女の細い髪を梳く俺の指を包んで、何度目かのそれを言う。その言葉とは裏腹な温度を持って。

「わたし、貴方が嫌い」

トリートメントをすすぎ流せば、涙とも、お湯とも取れる、未曾有の水滴が彼女の頬を伝っている。それを見て、俺はまた彼女を嫌う機会を失うのだった。