やさしい悪魔

飼っていた愛猫が死んだ。猫は死を悟ると、飼い主の目の届かない場所に行くなんて言うけれど、この子、クリスはそんな素振り少しも見せずにまるで眠るように、息を引き取った。7年間。7年間だ。数字にするとまるで無機質な記号のようだが、確かに温もりある日々をくれたクリスと一緒に過ごした積み重なった時間がそれだった。

それなのに涙はちっとも出なくて、もちろん悲しいのだけど、少しも出なくて、わたしは心のない人間なんだと思った。思い返せばおばあちゃんが亡くなった時も、同級生が闘病の末鬼籍に入った時も、泣けなくて、こんな人間死ねばいいのにと思った。わたしはわたしの死を願っていた。そうすれば泣けないわたしの代わりに優しい誰かが泣いてくれる。

ぽっかりと空いた胸を埋めるためにわたしはLINEに入った異性に連絡しまくって、夜な夜な寝る日々だ。こんなことをしても何にもならないのにね。あーあ。

「九井…一って誰だっけ?」

携帯の電話帳を眺めている時だった。見慣れない文字が電話番号と一緒に並んでいるのに気付く。全く心当たりのないその番号に縋るようにわたしは電話をかけることにした。

『金になんねぇ話はしない主義なんだ』

九井一はコール3回目で電話に出た。そして開口一番にそんな言葉を述べた。

「ええと、ごめんなさい。電話帳に、貴方の名前と電話番号が登録されていて、それで掛けてみました。気分を害したのならごめんなさい」

電話の向こう側からは舌打ちをする音と、盛大なため息が聞こえる。どうやら九井一は情愛とか礼儀とか、そういう一般常識を持ち合わせていない様子。「ええと…」どうしたらいいか、迷っていたら『いくらだ?』「え?」『もかはいくら出せる?』と質問が飛んできたので、貯金額を全額伝える。意外な点は相手がわたしの名前を知っていたことだったが、心当たりのないこちらがフルネームで登録する間柄だ。九井一側がわたしの名前を同じように登録していても不思議ではなかった。

『500万?それ、貯金全額言ってねぇか?馬鹿かよ』

九井一は失礼な人間らしい。名前と連絡先しか知らない人間を罵倒してきたので、もう通話を終了しようかとも思ったが、わたしにその間を与えてくれず、なら話をしてやらなくもないというような声で『5万でまず話を聞いてやる。それ以上を求めるならもっとだ。わかったな?』とスピーカーから聞こえてきたので、わたしは渋々話を続けることにした。支払いはpaypayで。随分便利な世の中になったものだ。

九井一に送金を済ませてから、経緯を大まかに話す。5万が大金なのか、果たして九井一がその金額に見合う人物なのか計りかねたが、聞いているのかいないのか。今トイレ行ってませんか?などと問いたくなるような静けさで、九井一はわたしの話を淡々と聞いている。愛猫が死んだこと。悲しくないはずはないのに泣けないこと。寂しさを紛らわすために毎晩顔と名前と連絡先しか知らない男と寝ていること。すべて話した。自分でもこの話の結論がどこに向かうのかわからなかったが、『オレとも寝たいのか?』と照れも笑いもせずに尋ねられたので、「そうかもしれない」と答えた。『なら追加で10万だな』。売春をしている女子中高生達でももっと安くないか?と一瞬思ったが、この時点でわたしは九井一という男に興味を抱いていたので、10万円追加で送金した。これ詐欺とかじゃないよね?

「九井さんは大事な人を亡くした時、泣けましたか」

『は?』

「お金を出したらわたしのこと、殺してくれますか」

『おい』

「一番大事なものを喪ったから生きてる意味がないんです」

わたしがそう言うと、オレは金のために生きてる。九井一はそう言った。通話時間は17分48秒。これまでの傾向からしてそうだろうなと薄々気付いていたが、本人が言うのだから間違いないのだろう。あ、わたし、死ねるかも?淡い期待と少しの恐怖が全身を駆け巡る。「日本人が海外で安楽死する時にかかる費用は約200万円。500万あれば九井さんなら受けてくれますよね」わたしは語気を強めながら、否定させる隙を与えまいと話を切ることなく、これから落ち合う予定のホテルに向かう準備をする。

大体の男は若い女とやりたいだけだから、聞き飽きた優しい言葉でわたしを慰め、宥めるが、九井一は励ましの言葉などひとつもかけてくれずに、だからと言って、説教をするわけでもなく、脳内で電卓を叩いているような気がする。一体いくらあれば殺してくれるのだろうか?

『オレが500万でオマエを買う。だからオマエは有り金全部オレに支払え』

逆じゃなくて?買い取るのは九井さんの方だよね。つまり、買い取っていただくっていうこと?九井一の言っている意味はわからなかったが、待っているのは殺人か誘拐か恋愛か友情か。この目で見てみたくなったので、半ばやけくそではあったが貯金全額九井一に送金した。

『契約完了だな』

初めて電話口で嬉しそうに九井一が笑ったので、わたしは勝手に救われたような気持ちになった。それと同時になぜか涙が溢れて、ああ、わたしが欲しかったのは、胸に空いた穴を埋めるのは、同情でも共感でもなく、わたしを連れ出してくれる人だったのだと気付く。全てを失ったけれど、不思議と心は晴れやかだった。

わたしが九井一の元で梵天の仕事を手伝う前の話。