睫毛の奥のブラックホール

今年の夏は雨季の延長線にあり、晴れる日が少なかったように思う。湿った空気は全身に重たくのしかかり、そこには無限の倦怠感があった。雨の音は嫌いではなかったが、こう毎日降られると洗濯物が乾かないし、段々と疎ましく思えてくる。

オレはと言うと、元々夏が嫌いだったので夏中室内で過ごした。毎年のことだ。変わることなく過ぎていく日々。変わっていくものは、カレンダーの日付と口座の残高くらいだった。…オレを誰だと思ってる?金集めの天才、九井一だ。口座の残高はもちろん増えていく一方だった。

人の心もいつかは変わってしまうのだろうか?オレにとって赤音さんの存在が消化不良になっているように、変わらないものがあるんじゃないかって、オレらしくもなく思うことがある。

「ココくんは、そんなにお金を貯めてなんに使うの?」

某元社長は宇宙に行くらしいけど、ココくんも行きたいの?宇宙。

ふざけた女だった。朝昼夜問わずオレを追いかけて、照れもせず好きだと言う。名前なんて覚える気はなかった。冷たくあしらっていればそのうち消えるだろうと思っていたからだ。だが、そんなオレの考えとコイツの頑固さは見事に火花を散らし、最早一種の根比べとなった。

知らず識らずのうちに自宅の合鍵を作られ、三食用意された飯を食う日々。いつしか絆されてしまったのかもしれない。以前のオレなら、もうオレに関わらないことを約束させる手切れ金として、そこそこの大金を渡していたことだろう。だけど夏の雨に狂わされて、存在を、同じ空間にいることを許してしまっている。これは由々しき事態だった。

「大は小を兼ねるって言うだろ?」

金はあればあるほどいい。世の中、金、金、金。少なくとも、オレの生きる世界ではそうだった。

「わたし貯金ないよ」

「真面目な話、貯めろよ」

夢とかやりたいこととか、ないのかよ。夢もやりたいこともないオレが問うに相応しくない質問だったが、コイツとの関わり合いで唯一良い点は、矛盾してようがなんだろうが、遠慮なく会話が出来ることだった。

仕事用のオフィスチェアの背もたれに全体重を預けながらオレが言う。仕事中に手を止めることは滅多にないが、丁度いい頃合いだったので、小休止だ。

それこそ金があれば宇宙にすら行ける。青いこの星を、第三者的に、客観的に、見ることができる。それがどれほど価値のあることか、オレには見出だせなかったけれど、多分世間的には“素晴らしい”ことであるに違いなかった。

「うーん…結婚式には興味ないし、貧しくても好きな人と一緒ならそれでいい。ココくんはやっぱり盛大に挙式したい?いっぱいお友達呼んで、たくさんの祝福の中、愛を誓うの」

「全然興味ねぇ」

大体友達とか言われてもイヌピーしか浮かばねえし。それに、

「一人じゃ結婚できねーじゃん」

「わたしがいるから出来ます!出来るよ、ココくん!」

「いや、もかとはしねーから」

幼い日の拙い約束を思い出す。あの日、オレを変え、赤音さんを殺す要因となった忌々しい日。

もしオレが救い出したのがイヌピーではなく赤音さんだったら、赤音さんはガキとの約束を守って結婚してくれたのだろうか。

今更こんなことを考えても無駄だ。無駄は悪であり、排除しなければいけない。

すぐに思考を切り替えて、窓の外に目を向けた。

ざあざあと降りしきる雨の中、窓ガラスにはオレともかの二人の姿が映っている。二人で出かけたことはなかったが、勢いでしたことはあった。コイツは年齢不詳だから(おそらくオレよりも年下だが、童顔故に検討が付かない)、下手したら事案かもしれなかった。梵天に属するオレが今更そんなことにビビるわけはないが、突き放しても突き放してもまだ飯を作りに毎日ここへ顔を出すコイツの心理には些か驚いている。つーか引いてる。

「出来たよ、お昼ごはん」

「じゃあ、休憩にすっか」

出来たてホヤホヤのナポリタンスパゲッティーからはまだ湯気が立ち上り、リビングに移動すると否が応でももかと対面することとなる。

好きだと言うことに対しては躊躇しないくせに「美味しくできてるといいんだけど」とはにかみながら言うその顔をじっと見る。マジで何歳なのかわからねえ。女子高生と言われても納得できたし、オレと同い年だと言われてもなくはなさそうだ。

「ココくん、って好きな人がいるでしょ」

「なんだよ、急に」

「知ってる。知ってるの、全部」

常に笑顔が耐えないその表情は一気に崩れて、大きな瞳からは大粒の涙が溢れた。

雨の音。目の前の昼飯。長い睫毛をかいくぐり、ボロボロと溢れる水滴。眺めることしかできなかった。金を稼ぐ天才と謳われるオレでもこういう場面はどうしたらいいのかわからず、ただただ夜空よりもよっぽど美しいその瞳は、宇宙に行くことよりも間違いなく価値があるものだと思った。

いくら出せば泣き止んでくれるのかわからないオレは細い腕を引き寄せて、らしくもなくこう言うのだ。

「好きだ。」